暁喜 綾敬

無名作家の徒然

2月14日刊行の本が、届いたよ

著者買取り分の本が、届きました。
 約20年振りの久々な刊行なうえ、名前も変えたから、初々しいドキドキ感を味わい、更に、こういう気持ちになっている自分を楽しんでいます!
 この20年の間に、たくさんの知り合いができ、お世話になった人も増えたので、かなりの数を献本しようと思っています。
 で、「サインを書いてくれ」と言われたのだが、名前を変えてから、サインなんて書かなかったので、慌てて作った。
もちろん、慣れてもいない。
なんだか緊張しているが、そんな自分が面白いぞ


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中央線の「西」

知り合いと谷保の話をしていて、気がついた。
JR中央線は、東京から西の多摩地区を真っ直ぐに通っているんだけど、「西」の着く駅が幾つかある。
西荻窪・西国分寺・西八王子
それぞれ、ちゃんと荻窪国分寺・八王子の西側に並んであるのだが、西国立と西立川は、中央線には無い。
西国立は、南武線
西立川は、青梅線
今まで、全く気にしていなかったよ


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~鈴懸の木~ 谷保の商店街


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小鳥書房さんの棚貸しの件で、久しぶりに谷保を訪れました。

いまは別の所に住んでいますが、実は谷保出身です。
国立から離れて久しいのですが、時々ラーメンを食べに行っていました。
今回、小鳥書房さんの入るダイヤ街の話をきっかけに、様々なことが思い出されてきました。

今は、レトロな商店街になってしまっておりますが、昭和五十年代(ココアシガレットが20円、森永ラムネが50円の頃)は、とっても活気のある場所だったのです。
まあ、バブルの頂点に向かって、社会全体にとても活気があった時代だと思います。
もっと具体的に言うと、桜通りを20m道路、武蔵野線をなかなか超えられず、府中街道で行き止まりだった東八を、30m道路と呼んでいた頃。

ダイヤ街、パールセンターなど商店街があり、銭湯もあり、忠実屋(現イオン)が出店したあとも、夕方頃は、主婦で混雑していました。
谷保第一公園(ダイヤ街前の公園)には、自分たち小学生が遊びまわっていました。
今、小鳥書房さんのある場所は、「あべちゃん」という玩具店で、よく行っていました。
「あべちゃん」の向かいは文房具屋さんなので、学用品はそこで買っていました。
忠実屋の前には、「みやたけ」という駄菓子屋さん。いつも小学生で混雑していましたが、遠足の前は特に大渋滞でしたね。夕方の忠実屋前は主婦の自転車が並んで停められていて狭い道が更に狭くなっていました。
ああ、みやたけの並びに、小さいレコード屋さんもあったなぁ…
また、第一公園には、紙芝居が来ていた時期がありました。

さて、ダイヤ街ですが、現在の姿からは想像出来ないかもしれませんが、年末は身動きが取れないほど混雑していたのを覚えています。
 東海書店っていう本屋さんもあったんですよ。
 記憶を辿ると、和菓子屋、洋裁店、自転車、床屋、八百屋、豆腐、パン、薬屋、陶器、お茶、魚屋、肉屋、写真屋などなど…。(今でも、数店舗残っています)

 そしてパールセンターには、カーテン屋、魚屋、肉屋、練り物、パン、総菜、八百屋、金魚などなど…
 パールセンターとダイヤ街の間の園芸店、中華料理店、第一団地のバス停付近にも電器屋、玩具、文房具、床屋、肉屋、本屋、レンタルレコードなどなど、どこの区域も活気がありました。
クレヨンしんちゃん・大人帝国」の商店街をイメージして貰って、正解です。

 谷保駅の方に行くと、国立市内に一件しかなかったパチンコ富士、こども館という玩具店もありました。(こども館になる前は、長崎屋だった)
ゲームセンターもありましたね。
定食屋(名前忘れた)、花屋さん…懐かしい
谷保駅には、「せきや」(現セブンイレブン)という酒屋さん以外は何も無かった。(ラーメン屋もあったんですけど、幼すぎてぼんやりとした記憶です)
谷保駅の近くには、「加藤」っていう駄菓子屋さん。
線路沿いの「はるちゃん」って飲み屋には、オヤジに連れて行ってもらったな…(小学生の頃の話)
今は全く聞かなくなった、切手・小銭のお店もあった。

多くの商店があったのですが、昔から変わらずに続けている店舗は、片手で足りる位じゃないでしょうか…
 友達の家がお店をやっているっていうのも、もちろんありました。今、述べた店舗(ダイヤ街だけではなく)にも、友達、知り合いの家が数店舗あります。具体的には書きませんけれどね。

 ちなみに、富士見台1丁目は、立川も府中も、自転車で行かれるんで、便利なんですね。
初めて免許を取得したときは、府中の試験場も自転車で行きました。

 第一公園の横にある「かつみ」(ラーメン屋)さんの奥さんと、少し話をさせて貰いました。
 「昔から味が変わらないので、とても嬉しい」という話から、「かつみ」さんが第一団地バス停の近くで店を出していた頃の話をさせて頂いて、盛り上がってしまいました。

今回、小鳥書房さんの棚貸しで、屋号を「鈴懸の木」にしましたが、昔、第一公園の真ん中に大きなプラタナスがあったので、そこから取りました。
「かつみ」の奥さんに、いつ頃切ったのかを訊いたところ、「かつみ」が現店舗に移った頃(30年位前)には、既に無かったとのことでした。
トイレ作って、ブランコが現在の位置に移動中した時に、切ったのかも知れません。

また、機会があれば、国立の話をしようと思います。

 2月14日に、「恋の水」という本の刊行が決まりました。

今回、上梓する小説について

 今回、上梓する小説は、脳死臓器移植をテーマにドナー家族視点での一人称で書いているのだが、実際に臓器移植コーディネーターをされていた方に取材をして、その現場やコーディネーターとしての注意点など、かなり細やかなことを教えて頂いた。
 最近、脳死臓器移植が行われ、それが1000例目という記事を読んだが、この話を書いたときは、まだまだ実例が少ない頃だった。
 そんななか、脳死判定に立ち会った緊張感や、ドナー家族に説明をする際は無用な圧を与えないような配慮など、人の生死を判定する厳しさを強く感じたのを覚えている。
 実際のマニュアルを見せて貰い、各承諾書のチェックの進め方や立会人の署名など、フィクションの中に落とし込んだ。
 今、その話を世に出すのに当たって、自分の知識が劣っていないかを確認しようと思い、臓器移植ネットワークのホームページから行える「グリーンリボン検定」を受けてみたところ、なんとか合格。
(やり直しができそうなので、誰でも合格しそうだが)
 
 しかし、あくまでも小説であり、ドキュメントでは無いので、タイトルにもした神社の由縁とその土地の伝承を絡めている。

 そして、「あえて」という点がある。
 読んで頂ければ解るのだが、書くのは多少の苦労があった。
 
 脳死臓器移植が、是が非かは解らない。
 残される家族が苦悩するのが解るから、脳死臓器移植は受けられないという医療関係者もいる。
 
 そんなことを考えながら、書いた話です。
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校了しました

 やっと校了しました。
 あとは、見本待ちです。
 それと同時進行になっていますが、新作の準備を始めまして、現在は資料集めが忙しい。
 取材もしなきゃならないし…。
 でも、アイデアを形にするまでの骨格作りも楽しいんですよねぇ。

初校

初校が来たので確認に没頭していたら、首から背中、脇までもが凝りに凝ってしまった。
痛い…

担当さんの意見も考えながら、如何にバランスよく、何よりも読みやすくしたいと思っている。
幸いにも数人の方が、完全な読者目線、かつボランティアで協力してくれるので、たいへん有り難い。
いつも思うのだが、書くのも評するのも、それなりの知識やテクニックがあるが、それを手に取り読んでくれるのは、一般の読者だから…。
そういう方々の意見や感想は、とても大切にしている。
自分の書きたいことを書いてはいるものの、独りよがりにならないように、多くの人に楽しんで貰えるように注意している。

今回の小説は、一人称で書いている。
大きなテーマは「愛」であり、「命」であり、「死と向き合うこと」である。
書いたのは7年も前になる。
実は幾度か書籍化の話があったのだが、色々あって流れていた。
今回、上梓するにあたって、書き直したところは無かったから、人間にとって普遍のテーマなのかな?
と思う。

実際に、生死を判断する医療現場に立ちあったプロの体験を小説というフィクションに落とし込んだから、書き上げた直後に読んで貰った現役の看護師さんからも、お褒め頂いたことが懐かしい。
(一人称なので、実体験だと思われたこともあった)

さあ、確認の続きをしなきゃ